👣 脱・解脱
あえて執着を捨てようとせず、執着にもがき苦しみそれを楽しむ
お釈迦様は説いた
人間の苦しみの根源は執着であるから、あらゆること・ものへの執着を捨ててしまえば苦しみから解放される
この考えは非常に興味深い この視点に関しては宗教というより非常に哲学的でありまるで科学的で原因療法的である
ちなみにタイトルにある解脱とは以下のような意味らしい (wikipediaより引用)
仏教においては、煩悩に縛られていることから解放され、迷いの世界、輪廻などの苦[1][11]を脱して自由の境地に到達すること[2][7]。悟ること[7]。対義語は繋縛(けばく, 巴: bandhana; 結縛)[12]。
私のような俗物はあえて苦しみから解放されない方が楽しいのではないか?と思ってこの記事を書いた
際限のない煩悩
私は煩悩の塊だ 欲しいものや車は沢山あるし食べてみたいもの、行ってみたい場所も山ほどある
例えば欲しいものに執着する苦しみをお釈迦様に言わせてしまえば以下のようになる
うん 確かにごもっともだ WRX STI (VAB EJ20ファイナルエディション)が欲しいと毎日悶々としているし 手に入ったら入ったで今度はNSX、シビック タイプR、ランクル、みたいにキリがないこともわかっている アニメのグッズだって欲しいグッズを手に入れては次から次へと手を出してる (ちゃんと加減はしてるつもり) 色々な国に行って世界中の美味いものをたらふく食べたい 会社を大きくしたいし、それは際限なき願望だと言うこともわかっている でもこの悶々としていること、手に入れようと頑張ること、限られた資金でどうやりとりしようかを工夫することこそが苦しくも楽しいのだ
楽しみと苦しみ
では、人生において楽しみとはなんだろうか? 毎日苦しみや不安なく生きることだろうか?
否、 少なくとも私の人生において楽しみとは 苦しみを乗り越えること、 及びその過程において苦しみを抜け出そうともがき苦しむことだ
例えば自身が売れない漫才師だとしよう 売れない時代には財布の中や待遇は豊かじゃないかもしれないが 「いつか売れてやる!」「いつか周りをギャフンと言わしてやる!」という気持ちで 「どうやったらウケるだろうか?」と試行錯誤を繰り返す これこそが楽しいんじゃないか? と、浅草キッドを見てなんとなく感じた 北野武は裕福な今よりも売れてない時代の方が楽しったんじゃないかな? もしかしたらそれは成功者が過去を振り返るから言えるだけなのかもしれない 売れないままでいたり、諦めて引退した人にとっては違うのかもしれない それでも私はこのもがき苦しむ期間こそ最高だと信じている (これは私にとってであり、私の人生における主観なので反論は受け付けないし、他人に押し付けるつもりもない)
苦しみからの解放など私には不要だ 苦しみが楽しみの母である
楽しみに執着していると言われてしまえばそれはそうだが、それで何が悪いのだ
煩悩は能力
好奇心、探究心とは則ち煩悩の一種であると私は考える 心の奥底から湧き出るそれらの渇望こそ技術や科学をはじめとした我々人類の進歩の源ではないのだろうか? 技術や科学の発展にはそれらに携わる人間の果てなき好奇心、探究心という煩悩が切っても切り離せない
つまり煩悩は一種の能力なのである この強さが時として我々を混乱に陥れ、我々を進歩させてくれる
余談だが、どれだけ技術が発展しても我々人類は苦しみから解放されていない 実際にSNSは多くの人を疲弊させ (どれだけ社会や技術が発展しようとも人間の本質など猿の頃からさほど変わらないのだ) マルクスの労働価値説に則れば労働が楽になってもその分単価が下がるだけなので我々は一生厳しい労働から解放されることはない
それに対しては、技術等は幸せに生きるためではなく選択肢を増やしてくれるためのものだと割り切ってしまえば良いのだ
まとめ
こんな私の姿は仏教の教えから見れば、俗物で心が貧しく醜い存在に見えるかもしれないがそれがなんだ
どうせ塵になる運命だ 欲望に忠実に苦しみもがき楽しんで生きていく
解脱できず輪廻してまたこの苦しみの地獄に突き落とされるって? 最高じゃないか! また苦しみの海を精一杯楽しんでやる!
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